フリージャズ&フリーミュージック1981~2000 ディスクガイド

TPAFの出版物

フリージャズ&フリーミュージック1981~2000: 開かれた音楽のアンソロジー(ディスクガイド)

先に紹介した、フリージャズ&フリーミュージック1960~80の続編、1981年から2000年までのアルバムを紹介している。この時代はポスト・モダンの時代、「新しさの終焉」「前衛の終焉」、などとよく言われ、音楽も多様化し一様な音楽の流れでは捉えきれなくなった。しかし他ジャンルとの融合、コラボレーションなどが盛んになった時代でもあり。そのような特色も踏まえ、フリージャズを中心にフリーミュージック、環境音楽、インスタレーション、電子音楽などについても紹介している。

執筆者:末冨 健夫;金野 吉晃;河合 孝治;小森 俊明;漆舘 登洋 , 齊藤 聡;織田 理史;川口 賢哉;近藤 秀秋;田中康次郎 , 牧野 はるみ, 大木 雄高

 

末冨健夫:この本は「開かれた音楽のアンソロジー Free Jazz&Free Music 1960〜80 Disk Guide編」の続編で、1980〜2000年までに録音された20年間のアルバムをセレクトしたわけだけど、前作の1960〜80年はフリージャズと現代音楽の集団即興をメインにすれば、だいたい収まりがついたのでわかりやすかったけど、80年以降となるとジャンルも多様化し、セレクトするのは難しかった。

河合孝治:1980年〜2000年はポスト・モダンの時代、「新しさの終焉」「前衛の終焉」、などとよく言われたね。もっとも終焉と言っても別に前衛音楽やフリー・ジャズがなくなったわけではなく、一様な音楽の流れでは捉えきれなくなったというのが実情だろうけど。

末冨:そうだね。まず80年代までのフリージャズの変遷をかいまみると、60年代前半にはアメリカからヨーロッパにその動きが波及し、ヨーロッパ独自のフリー・ジャズが演奏され始め、それはだんだんと演奏のきっかけとなるテーマすら無くなって行き、「フリー・ミュージック」、「フリー・インプロヴィゼイション」と呼ばれるようにもなった。またアメリカでは、ロフト・ジャズ・ムーヴメントが起こり、若いミュージシャンがNYCのロフトを中心にフリー・ジャズもふくめて、もっと伝統に即したジャズも含めて熱い状況も生まれた。そして、80年代初頭は大きな転換点に当たる。ジョン・ゾーンなどは典型だと思うが、フリー・インプロビゼーションを基調とするも、そこにロック、ニュー・ウェーヴ、民族音楽、現代音楽の素養を持った他ジャンルからの影響を受けた者、他ジャンルからの参入も相次いで起こった。そうなるとますますフリー・ジャズと言うより「フリー・ミュージック」と言ったほうが的を得ていると思う。ちなみに他ジャンルとの融合はポピュラー音楽全体の傾向だったと思うけど。それから現在、「フリー・ジャズ」と言う言葉は、一義的には別名「ニュー・シング」、「ニュー・ジャズ」とも言われた、アフリカン・アメリカンの歴史的・社会的な相克を反映した熱い時代の1970年前後までの、過激なジャズを示すと思う。もっともこれとは別に、フリーな即興演奏をしている音楽に対して総じて「フリー・ジャズ」と呼んでしまう事もある。その場合、社会的背景云々ではなく、単にフリー・インプロビゼーションという一つのスタイルの演奏を示しているのだと思う。あとはセシル・テイラーやオーネットコールマンなど50年代、60年代からから演奏している人たちの場合、80年以降もフリー・ジャズと呼んでも一向に構わないと思うが。

河合:日本の状況はどうなの?

末冨:日本は欧米より10年は遅れてフリー・ジャズを演奏し始めた。盛んになるのは70年代だと思う。ただ60年頃、小杉さん(小杉武久)達の「グループ音楽」はハプニングとか言われていたと思うけど、「フリー・インプロビゼーション」の先駆的な試みだったと思うし、銀巴里セッションが63年、サブさん(豊住芳三郎)が在籍していた60年代半ばの山下洋輔トリオはフリーまではいってないけど、やたらイントロを永遠とやっていて面白がっていたそうで、セシル・テイラーを聴いて「俺達みたいじゃん。」と思ったそうだ。だからすでにその芽はふき始めていたようだ。フリージャズをやってる意識は当然無いにしても、サニー・マレイがフリードラムを始める以前に、サブさんは高校生の時学園祭だかで、サックスとめちゃくちゃなセッションしたそうだ。多分こう言う事はあっちこっちで行われていたと思う。それで、80年以降だと高柳さんとか、吉沢さんの演奏などはどんどん過激になってジャズという領域にはおさまらなくなった。まさにフリー・ミュージック。

河合:なるほどChap Chap Records制作のアルバムは、この本で数多く紹介しているし吉沢さんのアルバムも入っているけど。それらはもっともホットな時代のフリー・ミュージックかもね。

末冨:そうだといいのだけど。それから本書では環境音楽やインスタレーションも対象にしている。これは、一見フリー・ジャズの流れとは無関係に思えるけど実際のところどうなの。

河合:環境音楽といえば、今ではアンビエントやヒーリングなどと同じように癒やしの音楽というイメージが強いけど、元々はジョン・ケージの影響が大きいと思う。ジョン・ケージは理念として即興を否定していた。「4分33秒」などは典型だけど、作曲家や演奏家の自由、つまり人間の自我を抑制することで、自由に音を分別(ぶんべつ)するのではなく、音をありのまま、無分別に観ろと。でもそれは「今まで行ってきた固定的な選択・分別による音と音との関係性を一旦やめなさい。そうして、自らの固定観念、先入観を排除すれば、新たな選択、関係性が構築できますよ」と言うことで、実際ケージはマース・カニングハムとの音楽では即興を行っているわけでね。なので即興のために即興を否定しているとも言えるし、逆説的だけど究極のフリー・ミュージックの理念と言えなくもない。環境音楽の場合は今言った、前半部分「自我を抑制しありのままに聴け」、を強調したものだと思う。

末冨:インスタレーションの方は?

河合:80年代、アート分野ではパフォーマンスとビデオアートが先端の表現だった。特にパフォーマンスは流行語にもなった。パフォーマンスはプロセスアートとも言われる。その背景として、もともとアートは造形を中心に発展したのだけど、その場合完成されたものを提示する固定した空間芸術だったのが、制作プロセスや時間性、身体性を強調することによって、新たなアートとなった。ところが音楽は元々、パフォーマンスなわけだ。なのでアートが求めた時間性とは逆に、空間性を求める方向を考えた。つまりアートが音楽化して、音楽がアート化(造形化、空間)するというベクトルが生まれたわけだ。従って音によるインスタレーションは音の空間化といえる。もちろんジョン・ケージの理念とも共通する。

末冨:なるほど、他にも関連としてサティの家具の音楽やマリー・シェイファーのサウンド・スケープなどもあったけど、とくに即興演奏と呼ばなくても、「開かれた音楽」の地平というか、「耳の拡張」といえるだろうね。それから、なんと言ってもコンピュータ―の導入、デジタル技術の発展は音楽にも大きな影響を与えているね。タージマハール旅行団の頃はアナログの時代だったけど。

河合:80年から2000年まではアナログからデジタルへの転換期だろうね。コンピュター音楽というとそれまで、IRCAMとかアメリカの大学の研究機関でおこなわれてきたのが、ミュージシャン個人が、PCを使って、ライブをおこなうようになった。M、MAX、Cmix、Csoundというような利用しやすい音楽専用のプログラム言語が生まれたのも大きい。1988年だったかな、カール・ストーンが日本にやってきて、Macのコンピュターが発売されて間もない頃だったけど「M」と言うソフトを使ってパフォーマンスをやった。これからはこういうライブエレクトロニクスが主流になるだろうなと思ったね。その点ジャズの場合、ハービー・ハンコックがフェアライトを使ったのが1984年だったか、それ以降テクノロジーの発展がとまったような気がするね。

末冨:どんな音楽でも制作プロセスのどこかで、PCを使っているわけで、作曲や演奏に直接つかわなくても、CD化やネット配信では使うわけだから。ジャズの場合、演奏過程でPCに大きく依存しているものは、認めないところがある。ただ、パット・メセニーの「オーケストリオン」はメセニーの演奏以外はコンピュター制御でしょう。あれをジャズと言ってもいいとは思うね。

河合:あれは面白いね。何年?

末冨: 2010年。他にPCとの関係だと90年代半ばあたりから、「音響系」とか「ノイズ」もクローズアップされて来た。ノイズは1970年代の終わり頃から存在していたけど、この時代に一気に浮上して来た感がある。本書では、ノイズとは少し距離を置いている。即興演奏とは重なり合う部分も多いと思うけど、根本的な所で異なるとも言えるし。まぁ、本書は2000年までなので、そういう音楽も含めて次に2000年以降を扱う本では対象になると思うけど。

 

 

 

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました